16  自由エネルギー原理 ── 予測する脳

本書は第7章で、ホップフィールドのエネルギー関数から出発した。そこから長い道のりだった。ボルツマンマシンの分配関数に阻まれ、変分下界で迂回し、ヘルムホルツマシンと VAE を経て、拡散モデルまで降りてきた。

この道の途中で、我々は一つの式を手に入れている。

\log p_\theta(x) = \mathcal{L}(q,\theta) + \mathrm{KL}\big(q \,\|\, p_\theta(z\mid x)\big)

第14章第3節で導いた、ELBO の分解である。本章の第2節で、この式の符号をひっくり返すだけで、脳の理論として提案されている「変分自由エネルギー」になることを見る。第7章のエネルギーと第14章の下界が、そこで合流する。

そして本章は、そこから一歩を踏み出す。同じ量を q について下げれば知覚、\theta について下げれば学習、そして感覚入力そのものについて下げれば行動になる—という主張である。予測する脳という発想が、どこまで押し広げられるかを見ることになる。

押し広げる先には、身体の内側もある。心臓の鼓動や胃の張りを予測するとはどういうことか。その予測誤差を情動と呼べるのか。第5節でこの問題を扱う。

ヒント本章のガイド

第1節が具体的な回路モデル(予測符号化)、第2節が本書全体の合流点、第3〜4節が原理としての定式化と強化学習との対立、第5節が身体の内側への適用、第6節が自他境界、第7節が批判的検討である。

第2節がいちばん大事である。第14章の ELBO がそのまま自由エネルギーになる。ここは短いが、本書でいちばん「つながった」と感じてほしい箇所だ。

第5節は本書で唯一、情動を扱う節である。数式は新しく出てこない。第3節の「三つの最小化」が内臓を相手にしたとき何になるか、という話だと思って読んでほしい。

第7節では自由エネルギー原理への批判を扱う。教科書として一方に肩入れしないためだが、批判の中身自体が「理論とは何か」を考えさせる。

なお本章は「脳は世界のモデルを持つ」と述べるところまでで終わる。そのモデルを実際に作ってみるとどうなるかは、次章の主題である。


1. 予測符号化

自由エネルギー原理に入る前に、その具体的な回路モデルから始めよう。予測符号化(predictive coding)である。

発想

第14章で、ヘルムホルツの「知覚は無意識的推論である」という見方を紹介した。予測符号化は、これを皮質の回路として実装する提案である。

中心となる主張はこうだ。皮質の各層は、下の層の活動を予測している。そして上へ送られるのは、予測が外れた分(予測誤差)だけである。

素朴なフィードフォワードの見方では、感覚情報がそのまま上へ流れていく。予測符号化はこれを反転させる。上へ流れるのは「驚き」だけであり、予測どおりだったものは送られない。

Rao–Ballard モデル

Rao と Ballard (1999) の定式化を見よう。階層の第 i 層の表現を r_i とする。上の層は下の層を予測する。

\hat{r}_i = f(W_{i+1}\, r_{i+1})

予測誤差は

e_i = r_i - \hat{r}_i

そして各層の表現は、自分より下の予測誤差を減らし、かつ自分が上から予測された値から離れすぎないように更新される。

\dot{r}_i \;\propto\; \underbrace{W_i^\top e_{i-1}}_{\textsf{下の誤差を受け取る}} \;-\; \underbrace{e_i}_{\textsf{上の予測からのズレ}}

この形をよく見てほしい。第一項はボトムアップ(誤差の上行)、第二項はトップダウン(予測の下行)である。二つの流れが釣り合ったところが、知覚の結果になる。

回路の構成を 図 1 に示す。

図 1: 予測符号化の回路(模式)。上の層が下の層の活動を予測し(破線)、予測と実際のずれだけが誤差ユニットを介して上へ送られる(実線)。予測どおりだったものは上へ流れない。この構成が皮質の層構造と対応するかは、本章末のコラムで検討する。

何を説明するか

予測符号化が注目されたのは、V1 の古典的受容野の外からの影響(extra-classical receptive field effects)を説明できたからである。

代表例がエンドストッピング(end-stopping)である。ある細胞は短い線分によく応答するのに、同じ線分を長くすると応答が減る。素朴なフィルタモデルでは説明しにくい—長いほうが受容野内の刺激エネルギーは大きいのだから。

予測符号化の説明はこうである。長い線分は周囲の文脈から予測しやすい。予測できるものは予測誤差を生まない。だから応答が減る。「応答の減少」が「よく説明できていること」を意味するという、視点の反転である。

同様の説明が、周囲文脈による抑制(surround suppression)や、繰り返し刺激への応答減衰(repetition suppression)にも与えられる。

誤差ユニットという仮説

予測符号化は、皮質に二種類のユニットがあることを要求する。表現を担うユニット r と、予測誤差を担うユニット e である。

これは検証可能な予測だが、決着していない。皮質のどの細胞が誤差ユニットなのかは同定されていない。層別の投射パターン(フィードフォワードは4層へ、フィードバックは1層と6層へ)が理論の要求と整合的だという議論はあるが、対応は緩い。本章末のコラムで扱う。


2. 変分自由エネルギー

本書の合流点である。ここが本章の要である。

符号を反転する

第14章第3節で導いた式を、もう一度書く。

\log p_\theta(x) = \mathcal{L}(q,\theta) + \mathrm{KL}\big(q(z) \,\|\, p_\theta(z\mid x)\big)

ここで F = -\mathcal{L} と定義する。それだけである。すると

F = -\log p_\theta(x) + \mathrm{KL}\big(q(z)\,\|\,p_\theta(z\mid x)\big)

この F変分自由エネルギー(variational free energy)である。

読み方

右辺の二項には、それぞれ名前がついている。

第一項 -\log p_\theta(x) は「驚き」(surprise)である。情報理論の自己情報量そのものだ。観測 x がモデルにとって意外であるほど大きくなる。

第二項は近似の悪さである。q が真の事後分布に一致すればゼロになる。

そして KL は非負だから、

F \;\ge\; -\log p_\theta(x)

自由エネルギーは、驚きの上界である。驚きそのものは計算できない(p_\theta(x) の積分が要る)が、その上界なら計算できる。だから上界を下げることで、驚きを下げる。

第14章では「下界を上げて尤度を押し上げる」と言った。同じことを符号を変えて言っているだけである。下から押し上げるか、上から押さえ込むか—見方が違うだけで、やっていることは一つだ。

ヘルムホルツからフリストンへ ── この式の来歴

ここで一度立ち止まり、この式がどこから来たのかを辿っておきたい。自由エネルギー原理は突然現れた理論ではない。本書がこれまで通ってきた道の、そのまま先にある。

ヘルムホルツ(19世紀)。出発点は、知覚を無意識的推論(unbewusster Schluss)と見る発想である。網膜に映るのは二次元の像にすぎない。そこから三次元の世界を「見る」には、原因を推し量る作業が要る—ヘルムホルツはそう考えた。第14章第1節で潜在変数モデルを導入したときの動機、そのものである。

ヘルムホルツマシン(1995年)。Dayan・Hinton・Neal・Zemel が、この発想に具体的な形を与えた。生成モデルと認識モデルを対で持ち、交互に学習する—第14章第5節の Wake-Sleep である。そこで最大化されていた量が、まさに \mathcal{L} だった。

EM の自由エネルギー表示(1998年)。Neal と Hinton が、EM アルゴリズムを「q\theta について -\mathcal{L} を交互に最小化する手続き」として書き直した。この時点で「自由エネルギー」という呼び名が定着している。第14章第4節で見た E ステップと M ステップの正体が、これである。

フリストン(2000年代以降)。そしてフリストンが、この同じ量を脳全体の原理に据えた。

式は変わっていない。変わったのは、どこまで適用するかである。ヘルムホルツマシンは q\theta しか動かさなかった。知覚と学習である。フリストンはここに第三の変数 x を加えた—感覚入力そのものを、行動によって変えてしまう。次節の「三つの最小化」は、この一手で開いた地平である。

ここがポイント

自由エネルギー原理は、ヘルムホルツマシンと同じ変分下界を、行動と生存にまで押し広げたものである。第14章で VAE に降りた道と、本章で脳の原理に登る道は、同じ一本の式から分かれている。系譜を知っておくと、次節以降で「どこまでが数学で、どこからが主張なのか」を見分けやすくなる。

なぜ「自由エネルギー」なのか

名前は統計力学から来ている。ELBO を別の形に分解してみよう。

\begin{aligned} F &= -\mathbb{E}_q\left[\log \frac{p_\theta(x,z)}{q(z)}\right] \\ &= \underbrace{\mathbb{E}_q\big[-\log p_\theta(x,z)\big]}_{\textsf{「エネルギー」の期待値}} \;-\; \underbrace{\Big(-\mathbb{E}_q\big[\log q(z)\big]\Big)}_{\textsf{エントロピー } H[q]} \end{aligned}

E(x,z) = -\log p_\theta(x,z) と置けば、

F = \mathbb{E}_q[E] - H[q]

熱力学の自由エネルギー F = U - TS と同じ形である(温度 T=1)。そして E = -\log p という関係は、第7章第3節のギブス分布 p \propto e^{-E} を裏返したものに他ならない。

第7章のエネルギーが、ここで文字通り「エネルギー」として戻ってきた。

ここがポイント

変分自由エネルギーは、ELBO の符号を反転しただけである。F = -\mathcal{L}。そして F は「驚き」-\log p(x) の上界であり、\mathbb{E}_q[E] - H[q] という熱力学と同じ形をしている。第7章のエネルギーと第14章の下界が、ここで一つになる。


3. 自由エネルギー原理

Friston (2010) の主張は、この量を脳の原理に据えるものである。

生物は、変分自由エネルギーを最小化するように振る舞う。

Fq(内部状態)と \theta(モデルのパラメータ)と x(感覚入力)に依存する。それぞれを動かすことが、異なる機能に対応するというのが、この原理の見通しの良さである。

三つの最小化

q を動かす — 知覚。感覚入力を固定したまま、内部の信念 q を更新して F を下げる。これは第14章の E ステップにあたり、事後分布への近似を良くする作業である。知覚とは推論であるというヘルムホルツの主張の、形式化になっている。

\theta を動かす — 学習。生成モデル自体を更新する。M ステップにあたる。時間スケールが知覚より遅い。

x を動かす — 行動。ここが自由エネルギー原理の独自なところである。

F を下げるには、信念を世界に合わせるだけでなく、世界を信念に合わせるという手もある。予測と違う入力が来たなら、予測が当たるように環境を変えてしまえばよい。手を伸ばして物を掴むのは、「掴んでいる」という予測を実現する行動である—これを能動的推論(active inference)と呼ぶ。

同じ一つの量を、三つの異なる変数について最小化する。それが知覚・学習・行動に対応する。理論としての魅力は、この統一性にある。

精度

もう一つ重要な要素が精度(precision)である。

予測誤差には、信頼できるものとそうでないものがある。暗闇での視覚入力は当てにならない。だから予測誤差に重みを付ける必要がある—これが精度で、誤差の分散の逆数にあたる。

F \approx \frac{1}{2}\sum_i \big(\pi_i\, e_i^2 - \log \pi_i\big) + \text{const}

\pi_i が精度である。精度が高い誤差は強く効き、低い誤差は無視される。第二項があることに注意してほしい。これがなければ、すべての精度をゼロにするのが最適になってしまう(何も信じなければ誤差も効かない)。-\log\pi_i が歯止めになるので、精度そのものも最小化の対象になる。

この重み付けを、注意と結びつける説明がある。注意を向けるとは、その感覚チャネルの精度を上げることだ、という見方である。神経修飾物質(アセチルコリンなど)が精度制御を担うという仮説も提出されている。魅力的だが、検証は容易でない。


4. 能動的推論と強化学習 ── 二つの原理の緊張

前節で、行動が「自由エネルギーを下げる第三の手」として現れた。だが読者は引っかかったはずである。第10章では、行動は報酬を最大化するものだった。

同じ行動を、二つの違う原理が説明している。どちらが正しいのだろうか。本節はこの緊張を正面から扱う。

報酬は要らない、という主張

自由エネルギー原理の側の主張は、思い切ったものである。報酬という別立ての量は要らない。

からくりは、生成モデルの事前分布にある。生物が「こうあってほしい」観測—食べている、体温が保たれている—に高い確率を割り当てた分布 p(x) を持っているとしよう。すると

-\log p(x)\ \text{が小さい} \iff x\ \text{が選好された状態}

驚きの小ささが、そのまま「望ましさ」になる。報酬関数 r(x) を置く代わりに、事前分布 p(x) に選好を焼き込む。これを事前選好(prior preference)と呼ぶ。

書き換えの対応はこうなる。

強化学習 能動的推論
報酬 r(x) を最大化 事前選好 \log p(x) を実現
価値関数 V(s) 期待自由エネルギー G
探索ボーナス(別立て) 情報利得(同じ量から出る)
方策 \pi を報酬で選ぶ 方策 \piG で選ぶ

期待自由エネルギー ── 探索と搾取が一つの式から出る

この売り文句の中身を見よう。まだ起きていない未来について自由エネルギーを評価するので、期待自由エネルギー G(\pi) と呼ばれる。方策 \pi を取ったときの、将来の観測 x と状態 z についての期待値である。

G(\pi) = \mathbb{E}_{q(x,z\mid\pi)}\Big[\log q(z\mid\pi) - \log p(x,z)\Big]

これを分解する。\log p(x,z) = \log p(z\mid x) + \log p(x) と分けて、項を並べ替える。

\begin{aligned} G(\pi) &= \mathbb{E}\big[\log q(z\mid\pi) - \log p(z\mid x) - \log p(x)\big] && \textsf{(分けて代入した)}\\ &= \underbrace{-\,\mathbb{E}\big[\log p(x)\big]}_{\textsf{選好からの隔たり}} \;-\; \underbrace{\mathbb{E}\big[\log p(z\mid x) - \log q(z\mid\pi)\big]}_{\textsf{情報利得}} && \textsf{(二つに束ねた)} \end{aligned}

第二項について、一言補っておく。これを「情報利得」と呼べるのは、p(z\mid x) をその方策のもとでの観測後の信念 q(z\mid x,\pi) と同一視する近似を置いたときである。そのとき第二項は

\mathbb{E}_{q(x\mid\pi)}\Big[\mathrm{KL}\big(q(z\mid x,\pi)\,\|\,q(z\mid\pi)\big)\Big] \;\ge\; 0

という形になる。観測する前の信念と、観測した後の信念が、どれだけ食い違うか。これが「観測によって得られる情報の量」である。

式を読もう。G を小さくするには、二つの道がある。

選好の項を下げる—選好する観測が起きる方へ行く。これは搾取(exploitation)である。報酬の高い状態を目指すことに他ならない。

情報利得を大きくする—観測することで状態についての信念が大きく更新される方へ行く。第二項は G に負号で入るので、これで G は下がる。これは探索(exploration)である。「行ってみないと分からない場所」に価値が付く。

探索と搾取が、一つの量の分解から出てくる。強化学習では \epsilon-greedy や探索ボーナスを外から足していた。ここでは足す必要がない—これが能動的推論のいちばんの売りである。

暗い部屋の問題

では自由エネルギー原理の勝ちかというと、そう簡単ではない。有名な反論がある。

驚きを最小化したいのなら、真っ暗で何も起きない部屋に閉じこもるのが最適ではないか。何も起きなければ、予測はすべて当たる。自由エネルギーはゼロに近い。だが生物はそうしない。

これが暗い部屋の問題(dark-room problem)である。フリストンらは二つの答えを用意している。

答えその一。事前選好の中に「食べる」「動く」「体温を保つ」が入っている。暗い部屋は選好に反するので、そこに留まると第一項が悪化する。

答えその二。第二項の情報利得が探索を促す。何も起きない部屋では信念が更新されないので、G は下がりきらない。

どちらの答えも、理論の内側からは出てこない。何を事前選好とするかは、理論が決めてくれない。進化が決めた、というのは説明ではなく、説明の外注である。

ここがポイント

強化学習と能動的推論は、同じ穴を違う名前で持っている。強化学習は「報酬関数をどう決めるか」を理論の外に置き(報酬設計の問題)、能動的推論は「事前選好をどう決めるか」を外に置く。どちらも、行動の目標そのものは与えられている。能動的推論の利得は、目標が決まったあとで探索と搾取を別立てにしなくて済むこと—そこにある。

符号が逆に見える問題

第10章第6節で予告した緊張に戻ろう。好奇心駆動の探索は、予測誤差の大きい状態を求める。自由エネルギー原理は、驚きを減らそうとする。符号が逆である。

期待自由エネルギーの分解は、この矛盾を解く。短期的に驚きを求めるのは、長期的に驚きを減らすためである—情報利得の項が、まさにそれを言っている。いま探索しておけば、モデルが良くなり、将来の予測が当たるようになる。

ただし、これは時間スケールを指定して初めて言えることである。どの範囲で期待値を取るかを決めなければ、「探索する」も「引きこもる」も同じ理論から出てきてしまう。第7節で扱う反証可能性の批判は、ここにも効いている。

実験で切り分けられるか

最後に、脳の話に戻そう。この対立は、データで決着がつくだろうか。

第10章第5節で見たドーパミンの応答は、報酬予測誤差としてきれいに説明された。では自由エネルギー原理の側は、このデータをどう読むのか。

能動的推論の枠組みでは、ドーパミンは精度(前節)を担う信号として読み替えられる。「この方策がどれだけ信頼できるか」の重みである。報酬予測誤差そのものではない、という主張だ。

同じデータの、二つの読み替えである。そして現状では、どちらの読み方が正しいかを決める実験は、まだ設計されていない。二つの理論は、いまのところ「同じ現象の違う記述」に留まっている。

読者への問い。もしあなたが実験計画を立てるとしたら、何を測るだろうか。両者が違う予測をする状況を作らなければならない。報酬はゼロだが情報利得が大きい状況—たとえば「役に立たないが未知の情報」を得る機会に、動物が接近するかどうか。それは一つの切り口になるだろうか。


5. 内臓を予測する ── 情動と自己

ここまで、予測の相手はもっぱら外界だった。網膜に映る像、耳に届く音、指先の触覚である。

だが感覚には、もう一系統ある。心臓の鼓動、胃の張り、呼吸の苦しさ、血中の二酸化炭素。身体の内側から来る信号である。これを内受容(interoception)と呼ぶ。外受容(exteroception)と対になる語だ。

問いはこうなる。前節までの枠組みを、この系統にそのまま当てはめたら何が出てくるだろうか。

三つの最小化を、内臓に向ける

第3節の三つの最小化を、相手を内臓に取り替えて読み直してみよう。

q を動かす — 身体の状態を推論する。心拍が速いという信号から、「いま自分はこういう状態にある」という信念を作る。

\theta を動かす — 身体のモデルを学習する。この状況ではふつう心拍がこれくらいになる、という見込みを更新する。

x を動かす — 身体そのものを変える。ここが独自である。外界に対する能動的推論は、手を伸ばして物を掴むことだった。内界に対しては、自律神経系を通じて心拍や血圧や発汗を変えることになる。予測が当たるように、身体を動かしてしまうのである。

三つ目に、生理学の側からの呼び名がある。アロスタシス(allostasis)である(Sterling 2012)。ホメオスタシスが「ずれたら戻す」反応的な調節であるのに対し、アロスタシスは「ずれる前に先回りする」予測的な調節を指す。立ち上がる前に血圧を上げておく、食事の匂いでインスリンを出しておく—どれも、まだ起きていないことへの備えである。

ここがポイント

アロスタシスは、能動的推論の身体版である。

第3節で「予測が当たるように環境を変える」と述べたときの環境を、身体の内側に置き換えただけだ。式は同じ、変数の中身が違う。自由エネルギー原理の射程が広いというのは、こういう意味である。

情動を予測誤差として読む

さて、ここからが本節の主題である。

内受容の予測とその誤差—これが情動(emotion)の正体ではないか、という提案がある。Seth (2013) と Seth & Friston (2016) の内受容推論(interoceptive inference)である。

主張を素朴な形で書くとこうなる。心臓がどきどきしていることに気づく、というのは、内受容信号をそのまま感じ取っているのではない。「この状況では心拍がこうなるはずだ」という予測と、実際に届いた信号との差を、脳が処理した結果である。そして情動的な感じ(feeling)は、その推論の帰結として生じる。

この発想には長い前史がある。19世紀末のジェームズ=ランゲ説である。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」—情動は身体変化の知覚であるという主張だった。内受容推論は、この末梢起源説を予測処理の言葉で書き直したものと見ることができる。

ただし一点、大事な違いがある。ジェームズ=ランゲが考えたのは身体から脳への一方向の流れだった。内受容推論では、そこに脳から身体へ下る予測が加わる。身体の信号が要らなくなるわけではない—一方向の流れが、下る予測と上る誤差の循環に置き換わるのである。第1節の予測符号化を、相手を内臓にして考えればよい。

第3節の精度が、ここで効いてくる。内受容の予測誤差に高い精度が割り当てられれば、その信号は強く効く。低ければ無視される。「同じ心拍の乱れが、あるときは不安として感じられ、あるときは何も感じられない」ことの説明を、この重み付けに求める議論がある。不安や抑うつを内受容の精度の異常として捉えようとする臨床研究も、この線上にある—ただしまだ枠組みの提案の段階で、精度そのものを独立に測る手立てがあるわけではない。

読者に問いたい。この枠組みは、情動の何を説明したことになるだろうか。快・不快の軸だろうか。強さだろうか。それとも「怒り」と「恐れ」の区別だろうか。答えは節の終わりで検討する。

別の系譜 ── 情動は構成される

内受容を情動の中心に置く議論は、自由エネルギー原理だけのものではない。もう一つ、独立の系譜がある。

Barrett & Simmons (2015) と Barrett (2017) の構成主義的情動理論(theory of constructed emotion)である。出発点は、情動研究の積年の問題だった—「怒り」や「恐れ」に対応する固有の身体反応や脳部位のパターン(指紋)は、探しても見つからない。

そこでバレットは順序を入れ替える。情動はまず身体の状態としてあり、それに名前が付くのではない。内受容の予測と、概念による分類とが組み合わさって、そのつど情動が構成されるのだと考える。同じ胸の高鳴りが、状況と概念に応じて「不安」にも「高揚」にもなる。個別の情動カテゴリは、生得的な種類ではなく、学習された分類の産物である。

解剖学的な見立ても提出されている。予測を送る側にあたるのは、島皮質前部や帯状皮質といった、第4層の発達が乏しい皮質だとする議論である。第1節で見たとおり、第4層は入力層である。それが薄いということは、この領域が信号を受けるより送る側に向いている—という読み方になる。

自由エネルギー原理の帰結として構成主義的情動理論が出てくるわけではない。二つは別の動機から立てられた。だが予測処理という枠組みを共有しているので、話はよく噛み合う。共通言語の提供という、第7節で自由エネルギー原理について述べることになる効能が、ここにも見える。

分かっていないこと

節を閉じる前に、留保を三つ書いておきたい。

第一に、階層の対応が緩い。内受容の経路(迷走神経や脊髄からの求心路 → 脳幹 → 視床 → 島皮質後部 → 前部)が、理論の要求する「予測を下ろす経路」と「誤差を上げる経路」の分業に対応しているかは、確かめられていない。第1節の予測符号化について本章末のコラムで述べる留保が、そのまま当てはまる。むしろ外受容よりも証拠が薄い。

第二に、説明の的が定まっていない。さきほどの問いへの答えである。「情動=内受容予測誤差」という等式は、快・不快と覚醒度くらいまでは筋が通る。だが情動カテゴリの区別まで説明できているとは言いがたい。バレットがそこを概念による分類に委ねたのは、まさにこの穴があるからである。そして概念がどこから来るのかは、理論の外に置かれている—第4節の事前選好と同じ形の外注である。

第三に、測るのが難しい。内受容の感度は、心拍を数えさせる課題などで測られてきた。だがこの課題そのものの妥当性が疑われている。 得点が心拍数や課題時間、さらには「自分の心拍はこれくらいだろう」という思い込みと相関してしまう—つまり心拍を感じ取る能力を測っていない可能性がある(Zamariola ら 2018。これに対する反論もある)。何を測っているのかがはっきりしない量で理論を検証するのは、危うい作業である。

それでも、この方向が魅力的である理由は述べておきたい。情動は長く「認知とは別のもの」として扱われてきた。予測という一つの言葉で、知覚と情動を同じ舞台に乗せられるなら、それだけで見通しは変わる。問題は、見通しがよいことと、正しいことが別だという点にある—本章が繰り返す注意である。


6. マルコフブランケット

自由エネルギー原理には、もう一段抽象的な層がある。そもそも「自己」と「環境」の境界とは何か。

定義

系の状態を四つに分ける。

  • 内部状態 \mu — 系の内側(脳の状態)
  • 外部状態 \eta — 系の外側(世界の状態)
  • 感覚状態 s — 外から内への窓
  • 作用状態 a — 内から外への窓

マルコフブランケット の条件は、内部と外部が s, a を介してのみ依存することである。

\mu \perp \eta \mid \{s, a\}

sa を知ってしまえば、\mu\eta は条件付き独立」—つまり内部状態は、感覚と作用を通してしか外界と関わらない。

何を言っているのか

これは統計的な独立性の条件にすぎない。だが Friston (2013) は、ここに「生きているものの境界」を見る。

自己と環境の境界は、物理的な膜ではなく、条件付き独立性の構造として定義される。細胞膜も、皮膚も、脳と身体の境界も、この構造の現れだ、という主張である。

そしてマルコフブランケットを持つ系が、定常状態を保つためには自由エネルギーを最小化せざるをえない—という議論から、自由エネルギー原理が導かれる、とされる。

この導出をどう評価するかが、次節の論点である。


7. 批判的検討

教科書として、ここは両論を併記しなければならない。自由エネルギー原理には強い支持者と強い批判者がいる。

支持する立場

統一性。知覚・学習・行動・注意を一つの量の最小化で説明する。これほど広い射程を持つ脳理論は他にない。

既存理論を含む。予測符号化、ベイズ脳仮説、強化学習の一部が、自由エネルギー原理の特殊な場合として位置づけられる。

AI との連続性。本書で辿ったとおり、ヘルムホルツマシンから VAE への系譜と数学的に地続きである。脳とAIを同じ言葉で語れる。

批判する立場

反証可能性の問題。これがもっとも重い批判である。

「自由エネルギーを最小化している」という主張は、何を観測しても後づけで説明できてしまうのではないか。ある行動が観測されたら「その行動が自由エネルギーを下げたのだ」と言える。逆の行動が観測されても、生成モデルを適当に設定すれば同じことが言える。

Popper 流に言えば、あらゆることを説明する理論は、何も予測しない。批判者はここを突く。

具体的な予測の少なさ。理論から演繹される、他の理論と区別できる予測がどれだけあるか。予測符号化のレベルまで降りれば検証可能な予測が出る(誤差ユニットの存在など)が、それは自由エネルギー原理でなく予測符号化の予測である。

「原理」という言葉の強さ。数学的には、マルコフブランケットを持つ定常な系についての記述は、ほとんどトートロジーに近いという指摘がある。「定常状態を保つ系は、そう振る舞うように見える」というだけではないか、と。

本書の立場

判定を下すことはしない。だが読者に持ち帰ってほしい視点を一つ述べる。

理論の価値は「正しいか」だけで測るものではない。自由エネルギー原理が果たしてきた役割は、むしろ共通言語の提供にある。予測符号化と強化学習と変分推論を同じ枠組みで語れるようになったこと自体が、研究の進め方を変えた。

同時に、共通言語であることと、経験的に検証されていることは別である。この区別を保ったまま使うのが、健全な態度だろう。

そして—次章で扱う「表現は収束するのか」という問いにも、まったく同じ構造の危うさがある。壮大な主張ほど、何を測れば反証できるのかを先に決めておかねばならない。


ノートコラム:皮質のフィードフォワード結合とフィードバック結合

本文第1節の予測符号化は、皮質に二つの流れ—予測が下る流れと、誤差が上る流れ—を要求する。解剖学はこれを支持しているだろうか。

層構造と投射のパターン。大脳皮質は6層からなる。領野間の結合には、二つの型があることが知られている。フィードフォワード型の投射は、主に上位領野の4層に終わる。フィードバック型の投射は、4層を避けて1層と6層に終わる。この非対称性は霊長類の視覚系で系統的に記述されており、領野の階層順序を推定するのに使われてきた。

予測符号化との対応。理論が要求するのは「上へ送るのは誤差、下へ送るのは予測」である。解剖学的な二つの流れが、この二つの信号に対応するという見立ては自然に思える。フィードバックが4層を避けるという事実も、「予測は入力層ではなく別の場所に届く」という理論の要求と整合的に読める。

生理学からの示唆。皮質の振動リズムに関して、フィードフォワード方向はガンマ帯(30–80 Hz 程度)、フィードバック方向はアルファ/ベータ帯(8–30 Hz 程度)が優位だという報告がある。二つの流れが異なる時間スケールで動いているとすれば、それらを分離して観測できる可能性がある。

分かっていないこと。ここからが重要である。予測誤差ユニットが同定されたわけではない。

理論は「表現ユニット」と「誤差ユニット」という二種類の細胞集団を要求する。だが皮質のどの細胞型がそれにあたるのかは、決着していない。特定の錐体細胞層や介在ニューロンを候補とする提案はあるが、決定的な証拠には至っていない。

さらに—予測符号化以外のモデルでも、同じ解剖学的事実は説明できる。層別投射の非対称性は、注意による利得制御でも、階層的なベイズ推論の別の実装でも、あるいは単なる情報の流れの整理としても解釈できる。解剖学が予測符号化を「支持している」と言うとき、それは「矛盾しない」以上のことを意味していない場合が多い。

本文で述べたとおり、自由エネルギー原理そのものの反証可能性が問われている。その具体化である予測符号化についても、モデルと生物学の対応は、いま思われているよりずっと緩い—このことは隠さずに書いておきたい。

出典 Felleman & Van Essen (1991)、Bastos et al. (2012)、Bastos et al. (2015)。

確認問題

  1. [導出]変分自由エネルギー F を ELBO \mathcal{L} から定義し、F \ge -\log p_\theta(x) を示せ。(第2節・第14章第3節)

  2. [導出]F = \mathbb{E}_q[E] - H[q] という分解を導き、E = -\log p_\theta(x,z) と第7章のギブス分布の関係を述べよ。(第2節・第7章第3節)

  3. [確認]自由エネルギー原理における三つの最小化(q\thetax を動かす)が、それぞれどの機能に対応するかを述べよ。(第3節)

  4. [確認]三つの最小化を内受容に当てはめると、それぞれ何をすることになるか。アロスタシスはそのどれに対応するか。(第5節・第3節)

  5. [考える]「情動とは内受容の予測誤差である」という主張は、情動の何を説明していて、何を説明していないか。本文の三つの留保を踏まえて述べよ。(第5節)

  6. [考える]自由エネルギー原理への反証可能性の批判を、自分の言葉でまとめよ。またそれに対する反論として何が言えるか。(第7節)

参考文献

  • Rao, R. P. N. & Ballard, D. H. (1999) Predictive coding in the visual cortex. Nat Neurosci — 予測符号化の原典。受容野の外からの影響をどう説明したかを見る[1節]
  • Friston, K. (2010) The free-energy principle: a unified brain theory? Nat Rev Neurosci — 原理としての定式化。三つの最小化はここ[3節]
  • Parr, T., Pezzulo, G. & Friston, K. (2022) Active Inference — 能動的推論の教科書。期待自由エネルギーの計算を追うなら[4節]
  • Friston, K. et al. (2012) Free-energy minimization and the dark-room problem. Front Psychol — 暗い部屋の問題への当事者からの応答[4節]
  • Seth, A. K. (2013) Interoceptive inference, emotion, and the embodied self. Trends Cogn Sci — 内受容推論の提案。情動と自己感覚を予測の言葉で書き直す[5節]
  • Seth, A. K. & Friston, K. J. (2016) Active interoceptive inference and the emotional brain. Philos Trans R Soc B — 上を自由エネルギー原理の枠組みに正式に接続した論文[5節]
  • Sterling, P. (2012) Allostasis: a model of predictive regulation. Physiol Behav — 予測的な調節という考え方。生理学の側から読む能動的推論[5節]
  • Barrett, L. F. & Simmons, W. K. (2015) Interoceptive predictions in the brain. Nat Rev Neurosci — 構成主義的情動理論の解剖学的な骨組み[5節]
  • Zamariola, G. et al. (2018) Interoceptive accuracy scores from the heartbeat counting task are problematic. Biol Psychol — 内受容の測り方への批判。理論を検証する土台が揺れていることを見るために[5節]
  • Barrett, L. F. (2017) The theory of constructed emotion: an active inference account of interoception and categorization. Soc Cogn Affect Neurosci — 情動が構成されるという主張の本体。予測と概念の組み合わせ[5節]
  • Friston, K. (2013) Life as we know it. J R Soc Interface — マルコフブランケットから自由エネルギー原理を導く議論。第7節の批判はここに向けられている[6節]