第9章 英語
この章は、日本語を母語とする研究者が英語を使える道具に変えるための地図である。目標はネイティブのように話すことではなく、論文を読み、議論に入り、即座に応答し、誤解なく自分の研究を位置づけることだ。英語のライティング(語彙・ヘッジング・レジスター)は第5章、論文執筆・査読対応・英文メールは第6章が担う。本章は言語そのものの習得と英語でのコミュニケーションに絞る。
ポイント:核は一行―英語は文法規則の集合ではなく、語と語の共起(コロケーション、どの語がどの語と一緒に使われやすいか)の体系である。§1 はその感覚をコーパス(実際に使われた英語の大規模な用例データ)で養う方法、§2 は日本語話者に特有のつまずきを生む L1 干渉、§3 は「音」を軸にした学習法、§4 は異文化コミュニケーションの要点。AI が「きれいな英文」を量産できる時代だからこそ、ここで扱う読む・聴く・話す力の価値はむしろ上がっている。
1. 英語は分布である ── コーパスとコロケーション
文法的に正しい英文が、自然な英文とは限らない。“strong tea” は自然だが “powerful tea” は不自然―これは文法では説明できず、コロケーション(共起関係)の知識に属する。母語話者は膨大なインプットから「どの語がどの語と、どの文脈で共起するか」の確率分布を無意識に獲得している。非母語話者がこの感覚を身につける近道は、規則の暗記ではなく生きた英語の分布に大量に触れ、迷ったら頻度で確かめることだ。
今井むつみ(2020)『英語独習法』(岩波新書)は、認知科学の知見から英語習得の鍵をスキーマ(schema、経験から抽象化された知識の枠組み)の構築に求める。同書の要点は三点に凝縮できる。
- 規則ではなく用法の分布を体感する ― 母語話者は “make a decision” とは言うが “do a decision” とは言わない。これは規則ではなく統計的知識である。
- 日本語のスキーマに引きずられない ― 冠詞や前置詞の難しさは個別規則の問題ではなく、英語が「もの」をどう捉えるかというスキーマの違いに起因する(→ §2)。
- 辞書よりコーパスを「冒険」する ― 定義の暗記より、実際の用例を大量に観察して語のニュアンスの分布を体感する。
コーパスの使い方:ある表現が学術文脈で自然か迷ったら、コーパスで頻度と共起語を確認する。“conduct an experiment” と “do an experiment” のどちらが論文で多いかは COCA(Corpus of Contemporary American English、10億語超の米語コーパス)の Academic サブコーパスで即座にわかる。これが文法書だけでは身につかない分布感覚を育てる。米語と英国英語で好まれる表現がずれることもあるので、読み書きの場面で迷ったときは COCA と BNC(英国英語)を使い分けるとよい。コロケーションの可視化には Sketch Engine や Ludwig.guru、用例確認には Google Scholar を「事実上のコーパス」として使う手もある。
2. L1 干渉 ── 日本語話者に特有のつまずき
母語(L1)の構造や習慣が第二言語の産出に影響する現象を L1 干渉(L1 interference / negative transfer)と呼ぶ。今井(2020)の視点では、これは「規則を知らない」のではなく日本語のスキーマが英語の分布と衝突する問題である。日本語話者に集中して現れるのは次の4点だ。
| つまずき | 背景 | 対策 |
|---|---|---|
| 冠詞(a/the/無冠詞) | 日本語に冠詞がなく、最大の難関。 | Master (1997) の冠詞システムを学び、良質な論文の冠詞を意識的に観察する。 |
| 前置詞 | 助詞と前置詞は1対1で対応しない。 | コロケーション辞典・コーパスで共起を確認する。 |
| 主語の省略(この行から下は書く・話すの双方に現れる) | 日本語は主語を省くが英語は明示する。 | 各文に主語があるか確認する。 |
| 数の一致(単複) | 日本語に単複の区別がなく不一致が起きやすい。 | 名詞を使うたび単数/複数を判定する。 |
書く場面での英語表現の癖(L1 干渉)は第5章 §5 に譲り、本章は読む・聴く・話す場面に絞る。
3. 学習の重心を「音」へ ── 多感覚的な学習
コロケーションと L1 干渉を土台に、ここでは学習の「重心」をどこに置くかを考える。これまで研究者の英語学習は「Writing First」―まず正確に書く力を優先する―が定説だった。論文・申請書など、その場の即応より正確さが要る場面が大半を占めたからである。だが大規模言語モデル(LLM)が英文の生成・校正を高精度で支援するようになり、「一から正確に書く」能力だけに頼る場面は減りつつある。ただし、書く力が要らなくなるわけではなく、AI の出力が正しいかを見極める力はむしろ重要になる。
逆説的に、AI の普及は対面コミュニケーションの価値を高めている。翻訳・要約・議事録を AI が補助することで言語の壁が下がり、海外との協働が増える。一方で、学会でのネットワーキング・ラボ訪問・共同研究の立ち上げといった信頼関係の構築、そして質疑応答やディスカッションでのリアルタイムの応答では、AI に頼る余裕がない。自分の言葉で即座に応答する力の価値はむしろ上がっている。
これまでのライティング偏重を見直すべき時期に来ている。そこで研究者に問われるのは、相手の話をその場で理解し、自分の研究を口頭で位置づける運用力である。学習の軸は文字から音へ移る。聴く・話すを中心に、映像・身体性を伴う多チャンネルの学習が、使える英語につながる。
音を軸にした学習は、次の4つの動きを習慣にすると回り出す。
- 聴く ― ポッドキャストや学会録画を日常的に聴き、音韻・リズム・イントネーションに浸る。自分の実力より少しだけ難しいインプット(第二言語習得論でいう i+1)を大量に浴びる。
- 話す ― シャドーイング(聞こえた英語を即座に繰り返す)、AI との会話練習、オンライン英会話で発話機会を確保する。自分で英語を作り出すこと(アウトプット)そのものが学習になる。
- 観る ― 映像つきコンテンツで、表情・ジェスチャー・文脈とともに言語を学ぶ。
- 体験する ― 学会参加・短期留学・ラボ訪問など、実際の場面で英語を使う。
映像・音声コンテンツを使うコツは、字幕なし → 英語字幕 → 日本語字幕の順で理解度を段階的に確認し、自分の興味(科学・文化・趣味)に沿ったコンテンツを選ぶこと。動機づけが継続の鍵だからである。代表的なリソースを挙げる(網羅ではなく入口)。
| リソース | 概要 |
|---|---|
| Nature Podcast / Science Podcast | 第一線の科学を音で。Nature/Science |
| TED Talks | 字幕・トランスクリプト付き。話し方のモデルにもなる。ted.com |
| BBC Learning English | 文法・語彙・発音の無料学習(6 Minute English 等)。bbc.co.uk/learningenglish |
| YouGlish | 単語・フレーズの発音を YouTube 動画の実文脈で検索。youglish.com |
| 発音解説チャンネル | 音声学に基づく無料解説(だいじろー、Rachel’s English 等)。最小対の聞き分けや、口・舌の形を映像で確認できる。 |
| AI 発音・会話アプリ | ELSA Speak(音素レベルの発音矯正)、Speak(AI 英会話)など。 |
4. 異文化コミュニケーション
英文メールの書き方・査読対応の定型表現は第6章(§5.2, §5.5)、学会でのネットワーキングは第11章(§5)が担当する。ここでは非母語話者として国際研究の場で働く際の要点に絞る。
研究を世界に届けるには、英語そのものの能力と、米国・英国などのローカルな慣行とを区別しておくとよい。発音・丁寧さの出し方・雑談の距離感・書類文化には地域差があり、特定の話者の見方を「英語圏全体の代表意見」と受け取らないことが肝要だ。Meyer (2014) The Culture Map は、コミュニケーションスタイルの違いを8つの文化的尺度で整理しており、自分と相手のずれを言語化する道具になる。
日本人研究者がとくに留意したいのは次の3点である。
- 明示する ― 国際研究の場では “I think” “I disagree” “Could you clarify?” と意見や疑問をはっきり口にするほうが確実に伝わる。文脈依存の強い伝え方は通じにくい。
- 明確に断る ― 直接的拒否を避ける日本語の慣習は、英語では曖昧と受け取られやすい。丁寧に、しかし明確に断る表現を持つ。
- 質問は貢献 ― 学会での質問は攻撃ではなく知的貢献。質問しないことは「関心がない」と解釈されうる。
英文での日常的なやりとり(correspondence)の原則とテンプレートは第6章 §5.5 を参照。Wallwork (2016) English for Academic Correspondence and Socializing(邦訳『日本人研究者のための英文レター・メール術』講談社, 2021)が包括的なリファレンスである。
チェックリスト
- 多読・多聴を習慣化しているか(科学ジャーナリズム・ポッドキャスト・YouTube 等)。
- 論文を読む際、内容だけでなく表現・コロケーションにも注意を向けているか。
- 冠詞・前置詞・単複の L1 干渉を意識してセルフチェックしているか。
- 迷った表現をコーパス(COCA 等)で頻度確認する習慣があるか。
- シャドーイングや AI 会話で話す練習を定期的にしているか。
- 学会発表のスクリプトを声に出して練習し、想定質問への応答を準備したか。
まとめ:この章の幹
- 英語は文法規則ではなく語と語の共起(コロケーション)の体系。規則の暗記より、生きた分布に大量に触れ、迷ったらコーパスで頻度を確かめる。
- 日本語話者のつまずきは冠詞・前置詞・主語省略・単複に集中する。これは日本語のスキーマが英語の分布と衝突する L1 干渉である。
- AI が「きれいな英文」を作る時代だからこそ、聴く・話すを軸にした多感覚的学習と、対面での即応力の価値が上がる。
- 国際研究では意見・疑問・拒否を明示する。質問は知的貢献。ローカルな慣行を「英語圏の総意」と取り違えない。
- ライティングは第5章・第6章、英文メールは第6章 §5.5 にまとめてある。本章は英語の習得とコミュニケーションに徹する。
参考文献
書籍(言語習得・認知科学)
- 今井むつみ(2020)『英語独習法』岩波新書.
- Day, R. R., & Bamford, J. (1998). Extensive Reading in the Second Language Classroom. Cambridge University Press.
- Krashen, S. D. (1985). The Input Hypothesis: Issues and Implications. Longman.
- Nation, I. S. P. (2013). Learning Vocabulary in Another Language (2nd ed.). Cambridge University Press.
- Schmidt, R. (1990). The role of consciousness in second language learning. Applied Linguistics, 11(2), 129–158.
- Swain, M. (1985). Communicative competence. In S. Gass & C. Madden (Eds.), Input in Second Language Acquisition. Newbury House.
- Tomasello, M. (2003). Constructing a Language: A Usage-Based Theory of Language Acquisition. Harvard University Press.
異文化コミュニケーション
- Hofstede, G., Hofstede, G. J., & Minkov, M. (2010). Cultures and Organizations (3rd ed.). McGraw-Hill.
- Meyer, E. (2014). The Culture Map. PublicAffairs.
英語コミュニケーション・文法
- Master, P. (1997). The English article system. System, 25(2), 215–232.
- Murphy, R. (2019). English Grammar in Use (5th ed.). Cambridge University Press.
- Swan, M. (2016). Practical English Usage (4th ed.). Oxford University Press.
- Wallwork, A. (2016). English for Academic Correspondence and Socializing (2nd ed.). Springer. 邦訳:前平謙二・笠川梢訳『ネイティブが教える 日本人研究者のための英文レター・メール術』講談社, 2021.
言語習得理論(参考)
- インプット仮説(Krashen 1985)/アウトプット仮説(Swain 1985)/気づき仮説(Schmidt 1990)/多読理論(Day & Bamford 1998)/用法基盤モデル(Tomasello 2003; 今井 2020).いずれも「理解可能なインプットと産出・気づきの反復で、規則ではなくパターンとして言語を習得する」という共通の含意を持つ.
オンラインリソース
- コーパス:COCA/BNC/Sketch Engine/Ludwig.guru
- 発音・用例:YouGlish/ELSA Speak
- 学習・研修:BBC Learning English/Purdue OWL/Nature Masterclasses
- 英語試験(留学・要件用):TOEFL iBT(北米)/IELTS Academic(英・豪・加)/Cambridge C1/C2/Duolingo English Test(要件は出願先で確認).